遺品処理 大阪の応用編
そこで何かの機会に、「おい、この辺に池袋から出てきたやつはいるか」と聞いてみると、巣鴨(の商)や長崎(の南)の出身者ばかりで、池袋から出てきた人聞はひとりもいないということになった。
だから、「池袋の女は居つかない」という伝説ができたわけだ。
別に「池袋の男は居つかない」でも良かったはずだが、きっと出身地なんて野暮なことを詮索するのは、男が遊郭でなじみの女に聞く場合とか、暇を持て余したご隠居が、近所で奉公している田舎娘に仲人ぐちでもきいてやろうかというような場合が多かったのだろう。
とにかく、山手線の駅ができるまでの池袋は、それほど廃れきった場所だった。
それから一年近くもたつというのに、東京都西北随お一のターミナルの座を成り上がりの池袋に奪われてしまったショックから、大塚はいまだに立ち直れていない。
そして、その隣の巣鴨駅界隈もまた、池袋という地名が一度消えかけてまた復活したことの被害者なのだ。
の中心巣鴨は、東京一整然と区画割りをした高級住宅地、大和郷(やまとむらと読む)の最寄り駅として、高級住宅地の代名詞だった時代もある、ブランド意識の強い土地柄だ。
大和郷などといってもいまは「知る人ぞ知る」程度の知名度しかないが、この日本一、二を争う歴史を持つ整然とした区画の高級分譲地は、三菱財閥の始者・岩崎一族が総力を挙げて取り組んだ、最初の不動産開発事業だった。
それが、いまや「おばあちゃんの竹下通り」として全国区で勇名を馳せてしまった「とげぬき地蔵通り」でかろうじて人を集めている。
気位の高い昔からの巣鴨住民にとっては、この「高齢者の吹き溜まり」的イメージは腹に据え兼ねるしろものだろう。
さらに昔にさかのぼると、巣鴨は江戸時代の園芸、もう少し具体的に言うと花井や植木の栽培技術の中心地だった。
江戸は一七1一九世紀を通じて世界最大の人口を擁する都市だっただけではなく、世界最大の緑陰都市でもあり、世界最大の園芸都市でもあった。
花の都フィレンツエとか、花の都パリとか言うけれど、それはみんな単なるもののたとえでしかなかった。
実際のフィレンツエやパリは(もちろん、そのほかのヨーロッパの都市もみんな同じだが)、道一面を両側の建物からぶちまけられた糞尿が覆っていたため、貴婦人たちの衣装や素足を汚さないためにハイヒールというものを発明しなければならなかったほど、不潔で悪臭ふんぷんたる一大「肥溜め都市」だった。
シエナ市では、条例によって、夕暮れから夜明けまでの聞は、窓からゴミや汚水を捨てることを禁止した昼間は相変わらず自由に捨てられたのである。
ケンブリッジでは公道のいたるところに糞尿が山積みされ、二、三週間ごとに車で運ぶことになっていた。
十二、三世紀のパリでは、道路の中央の溝にゴミも糞尿も一緒くたに捨てられていたから、雨でも降れば道路中にあふれた。
したがって靴は高くて重く、底の厚いものでなければならなかった。
特に、着飾った貴婦人が馬車から降りて屋敷に入るときにドレスの裾を汚さぬようにと考案されたのが、ぽっくりのような形をした、現在のハイヒールの原型だったというわけだ。
この惨慌たる「大都会」の実情は、ヨーロッパでは一九世紀はともかく、一八世紀までは続いていたらしい。
それに比べて、江戸はきちんとした屋敷を構えた武家の庭が整然と緑の陰を落としていたばかりではなく、長屋住まいのむ園芸家たちの品種改良によって育てられたものだった。
しかし、巣鴨の花井・植木産業は、都市化の中でほぼ壊滅状態に追い込まれた。
そして、いまではいち早く郊外への集団脱出を図った、勇気ある園芸企業家たちがつくった、大宮盆栽の町だけが、巣鴨園芸の伝統を受け継いでいる。
そして、巣鴨にとってもうひとつの痛の種が、巣鴨プリズンだ。
A級戦犯を拘留し処刑した場所として知られた「巣鴨」プリズンは、地理的にはどう考えても池袋にあるし、実際その跡地を再開発してできたピル群は、池袋サンシャインシティと呼ばれている。
それなのに、二次大戦の暗い記憶だけはいつまでも、池袋という地名自体の影が薄かったころの慣習をそのまま伝えて、巣鴨プリズンとして語り継がれていくだろう。
ゃなKさわよしやすして大老に成り上がった柳沢吉保の屋敷跡だ。
この名園の最寄り駅ということもあって、ホームのすぐそばまでつつじが植えられていて、手入れの行き届いた草花を四季それぞれに育てて、山手線乗客の目を楽しませてくれる。
もう少し乗降客が多ければ、華やいだ雰囲気と言えるのだろうが、閑散としたこの駅では、かえってそれが精一杯おしゃれをしてパーティーに来たのに、内気すぎてだれにも声をかけられずに立ち尽くしている「壁の花」に見えてしまう。
だが、この柳沢吉保の時代以来眠っていたような土地が、明治維新以降でたった一度だけ目を覚ましたことがあった。
残念なことに、目を覚ますと同時に「眠れる森の美女」が飛び込んでいったのは、やさしい王子様の腕の中ではなく、狂乱のバブルの真っただ中だった。
東京の不動産バブルの頂点となった一九八七年の公示地価で、文京区本駒込六丁目の住宅地が地価上昇率のナンバーワンになったのだ。
たった一年で、前年の一平方メートル当たり九三万円だった土地が、一挙に二・六倍にもはね上がって、二四五万円というとんでもない値段をつけてしまった。
長年東京で不動産を扱ってきた業者には、この時点ですでに、相場はまったくものの価値が分からない素人に引きずり因されていることがはっきりしていたはずだ。
本駒込という都心の過疎地のようなところにある、しかも容積率も低い住宅地が、一平方メートル当たり二五00万円近く、坪単価では八000万円を超えるような価格で取り引きされるなんてことは、実需では絶対考えられない。
前の年の一平方メートル当たり九三万円でさえ高すぎたくらいだ。
「もっと都心より遠くにある新宿や渋谷の土地がここよりずっと高いんだから、ここだって大幅に値上がりしていいはずだ」といった上っつらだけの比較感で、土地勘も持たずにあっちこっちの土地を買いあさるにワーカー不動産屋が、こうした箸にも棒にもかからないような高値での取引をやっていたということだ。
田端は、かつて芥川龍之介をはじめとする多くの作家・文学者・芸術家が移り住んできた新興住宅地で、主に薗家や彫刻家が住みついた目白のアトリエ村の向こうを張って、田端文士村と呼ばれた先端文化の発信基地だった。
しかし、芥川龍之介の自殺以降、ほとんど明るい話題を間かない。
いまや、山手線から東北・上越新幹線まで、すらっと並んだ線路が、鉄道マニアにダイナミックなシャツター・チャンスを与えるということ以外では、めったに省みられることのない忘れられた駅になってしまった。
西日暮里は、山手線で唯一地下鉄との乗り換えのために新設された駅だ。
もう営団地下鉄千代田線との乗換駅として誕生してから二年以上もたつというのに、いまだに仮設駅のような殺風景さで、駅周辺の商業集積も全然進んでいない。
この駅がいかに閑散としているかは、よその駅なら当然回転の速い客商売に使っているはずの、駅のすぐそばの高架下の店舗スペースを、トランクルームに使っていることでも分かる。
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